チル=イズム

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80年代の名古屋で異彩を放っていたあの伝説のディスコ「Disco OZ(ディスコ・オズ)」の記憶を記録 Vol.1

こんにちは!
HIMA-JIN WALKER です

パンクからポストパンク、ニューウェーブへとトレンドが変化した1980年代。当時ブームのディスコのトレンドもそれに反応し、ファンキーでソウルフルなディスコの中にポツポツと異彩を放つクラブ系のディスコが現れ始めました。たとえば、名古屋には 『OZ(オズ)』というディスコ。

名古屋市中区栄三丁目の繁華街にグランドビルというビルがありました。その場所がら、飲み屋さんの集まる夜の店がいっぱいのテナントビルです。

1982年12月8日、そのグランドビルの7Fにオープンしたのが、今は亡き「 Disco OZ (オズ) 」。

栄や新栄、名駅といった名古屋の繁華街にディスコというのは珍しいことではなかったのですが、OZ は他とはまったく異なるコンセプトのディスコでした。

その当時で言う、ロンドンナイト系(クラブ系)をモチーフにしたスタイルです。
「名古屋に "Camden Palace" ができた!」とパンク小僧には衝撃的な出来事。

私のOZデビューは、開店2日目。
人がうごめく薄暗い店内に足を踏み入れると、大音量で重低音の重苦しい音楽がガンガンと鼓膜から脳髄に響き、タバコ⁈ の煙に眼がかすみ、フワフワと。匂いも雰囲気も明らかに他とは違う別世界がそこに。

流れる音楽はニューウェーブ中心の、時々パンク。
私にとって記念すべきOZでの1曲目は、忘れもしない パンクバンド The Clash の "London Calling"。
パンクロックをこれだけ大音量で聴ける機会がなかったので、それも感動。でも、そのおかげで近ごろ耳鳴りキーンの難聴気味 (^^;

料金が1000円から1500円ぐらいとリーズナブル (女性は500円ぐらい?)ということもあって、お金と時間があればとりあえず ディスコOZ でした。貧乏人に優しい!

とくに、『クロのOZ』と呼ばれた前期のOZがバッチリ!
店内は黒、もしくはツートンを基調。店員さんのファッションはアーミー(迷彩)で統一。かなり攻めてました。
客層もマヌカン系とか、ファッション、美容関連のお洒落でソレ風な人が多く、良い意味で病んだ雰囲気がそこらじゅうに蔓延。アバンギャルドでした。

DJブースの前に大きめのソファー席。その向かいの壁面には大型プロジェクター。
グレイス・ジョーンズのような、とんがった人の映像や、アートでシュールな映像、アブノーマルな刺激的な映像がスライド投影。

パンク、ニューウェーブ、ロンドン、ファッションといったキーワードを五感で感じることができ、アドレナリンとワクワクが止まらない空間でした。

開店した年と翌年の年末(年越し)は、迷うことなくOZ でした。
カウントダウンのときのフロアーは、人、人、人で、暑くて、酸欠状態でクラクラ。汗だくのたぶん脱水症状でヘロヘロ。
さらに、追い討ちをかけるように、シド・ヴィシャスの"My Way" 、新年の一発目は、U2の"New Years Day"。あとはコレでもかと、ピーカーブー、ワンツー・・・の定番の曲が立て続けに。
心臓がバクバク、ヘトヘト。でも、店内のモニターにはNHKの紅白歌合戦。革新と伝統、静と動が混沌とした、なんともシュールな不思議な世界。

開店してからしばらく、芸能人・有名人もよく来ていました。音楽関係の人が多い中、知らないうちに、とある女優さんとかが隣で踊ってる!ということも珍しくなかったですね。あの人とか、この人とか。
ツバキハウス、玉椿とか、関東圏のロンドンナイト系のお店に比べると、当時のOZは、そこまで観光スポット化しておらず、お忍びで来やすい場所だった、というのもあったかもしれませんね。

音楽と雰囲気に負けてなかったのが、飲食の充実。オール・フリーで、カレー、焼きそば、たまにラーメンもあったり。
当時流行りのカクテル系の飲み物もいろいろあり、スクリュードライバー、モスコミュール、バイオレットフィズなどを知ったきっかけは、OZ だったと思います。しっかり食べて飲めたので、ご飯だけで OZ、ということも何度かあり、それだけでも十分お得感がありました。貧乏人に優しい!

いつ頃だったのかは、ハッキリ覚えてないですが、OZ通信?という機関紙みたいなものもありました。
誌面には OZで人気の曲が紹介されていて、それを参考に、自分なりの選曲でカセットテープにベスト10を録音し、ウォークマンで擦切れるぐらい聴いたり。

この開店から1年間ぐらいの『クロのDisco OZ』がお気に入りでした。

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